断酒生活(206日目)〜予感と予測〜
断酒生活(201日目)〜終わる歴史〜
ついに200日を超えました。
と言っても書こうと思って気がついたら、あっ200日過ぎてるという感じですが。
毎年12月は飲み会続きでしたが、今年は全くノンアルコール生活なので体も軽いです。
さて今日は仕事で少しショックな事がありました。
私の担当しているやや大口の案件が無くなることが決まりました。
と言っても急にというわけではなく、なんとなく布石はあってそろそろかなあとこちらも身構えてはいたので、そこまでショックも無かったのですが、些か予想よりも早かったなという感じです。
だいたい要件を伝えられずに呼ばれる場合は、あまりいい知らせではないなとわかるので今回もある程度予測はできていました。
さて私のやっている仕事は広告関係で、永遠に続く案件はないというのは過去の経験則からもよく理解しています。
だからこそ営業としては常に新しい案件やクライアントを開拓していかなければいけないのです。
まあこれは結局どの仕事でも同じなんだと思います。
もちろん新たに開拓していかなくてはいけないのはプレッシャーです。押し潰されそうにもなります。ただやらなきゃ食べてはいけないのでやるだけです。
今日起きた現実に対して、事実を冷静に受け止め、一つの打開策を考えらました。そしてそれを提案し、新たな目標を立てることができました。
これはあらかじめ漠然と考えていた一つの対処法ではありますが、こういうことを事前に準備できていたのももしかしたら断酒の効果があったのかなと思います。
また事実を受け止める冷静な思考も断酒のおかげでしょう。
一昔前の私なら今夜は酒に逃げていたでしょう。
冷静になれと酒を煽り、挙句は泥酔し一時的に全てを忘れたかのように。
しかし翌朝に残るのは何も解決策の出ていない現実と二日酔いの気持ち悪さに加えて罪悪感からくる暗鬱とした気分、そこにプレッシャーが恐怖となって襲いかかってくる。
そして再び飲む。
家庭でも冷静ではいられないでしょう。
しかし今日私は冷静だった。波は多少立ったが大きなうねりにはならなかった。
家庭でも冷静でいられた。そして今冷静にこのブログを書いている。
もちろん現実は変わらない。
ただ一つ変化に気がついた。それは思考がポジティブになれていること。
もうダメだ。ではなく何か出来ないか?別の角度から見てみるとどうか?このように考えられている。多分これは断酒効果だと私は思う。
さて現実は大きな利益は無くなったのだが、直ちに0にならない方向を模索できた。
来年度新たに気合いを入れ直して頑張るものができた。
いずれは訪れる終わり。しかしそこから新たに始まることもある。
永遠に続くものはないが、形を変えても続けていけるものはある。続けていくことで変わることもある。
今はせっかく続いた小さな歴史をもう少し続けていける可能性があるならやってみようと思っている。
私の好きなバンドの解散ライブでのMCを書いて今日は締めたいと思う。
「歴史というものは大変素晴らしいもので
終わる歴史もあれば、続いていく歴史もありますね。
そういった札幌の私が影響を受けたバンドの方々はずーっと、この歴史が続いていっているわけで、その分その重さを作品に表していっておる訳ですね。」
断酒生活(192日目)〜忘年会シーズン〜
やや間があきました。
12月年の瀬に入り、色々と慌ただしくしております。
さてこの時期になると世の中は忘年会シーズンで、毎日どこかしこで酒宴が開かれている。またそういったお誘いも多くなる時期だ。
私も社会人1社目の会社の同期からお誘いがあった。
例年この年末の時期に同期や当時の先輩、後輩も含めて現在まだその会社にいる人、やめた人関係なく大勢で集まる恒例の行事だ。
当初参加するつもりでいたのだが、皆の日程がなかなか合わず、結果的には私は別の予定が入っていて行けない日に設定してもらった。
調整つけて行くとは言ったものの社交辞令で、実際飲めない私が行ける日程に合わせてもらうのが忍びなかった。
参加したくなかった訳ではない。
ただ実際、飲み会というものに対する優先順位がとても低くなっている事に気がついた。一つは参加費として4〜5千円かかるということ。もう一つはその日家の用事で会社は元々休みにしていたので、わざわざ飲み会のために都心に出るのがおっくうだったという事。
この2つの要因は以前であれば、それでも飲みたいという飲酒欲求の方が圧倒的に勝っていただろうが、今は逆である。
飲み会を否定するつもりも無いし、むしろ参加したい会もあるが、あきらかに優先順位は低い。
例年ならこの時期は飲み三昧で散財していたものだが、今はそのお金は趣味の釣り具やファッションに使っている。
どちらがいいか?
それは人それぞれが決める事だし、どちらが良くて悪い訳ではない。価値観の違いというやつで、今の私は飲み会にお金を使うよりも、別の事に使う方が有意義なのだ。
飲めないとお誘いも少なくなる。
やがては誘われなくもなるだろう。
飲める人の立場からは、飲めない人は可哀想だと思う(かつて自分もそう思っていた)。
飲み会に参加しても素面じゃつまらんだろうし、ジュースなどで同じ金額払わされるんだから損してるし、何より楽しい飲み会に誘われないのは可哀想だと。
飲めない逆の立場になってみて良くわかる。
・素面じゃつまらない=酔っぱらいの醜態を見るのは面白くないし時に不愉快。
・損してる=つまみも冷静に食べてみれば大して美味しくないものばかりで、まさに「損」その通〜り。
・可哀想=むしろ積極的に参加したいと思わないので、誘われないのは逆にありがたい。
という訳です。
これはいくら飲める人に説明しても決して理解されないと思う。
そのくらい飲酒至上主義社会の先入観というものは根強いなと感じます。
断酒生活(180日目)〜酒に囚われない〜
間も無く断酒して半年が経つ。
まだ半年!というくらい時の流れはゆっくりな気がする。
それだけ素面でいる時間が多いということなのだろう。
酒というものは麻酔的な快楽を与えるが、同時に時間を奪ってしまう。
脳が麻痺するので時間感覚がおかしくなり、延々ダラダラと飲んでいるのだ。
酒を飲まないで飲み会に参加するといかに時間を浪費しているかがわかる。
酒に囚われると酒の事ばかり考える。
何時飲もうか?
何処で飲もうか?
誰と飲もうか?
何を飲もうか?
そうして考えている時間も楽しかったものだが、今思い返せば全くもって時間の無駄だ。
結局飲み始めればどうでも良くなって後は変わらないのだから。
実際酒をやめたら、夕飯というものへの執着がなくなった。
前は今日はこの酒を飲みたいから、このツマミでと考えていたが今は毎日出されるものをなんの文句もなく食べている。
そしてそれは決して食に対する興味が無くなったわけではなく、十分に食事を楽しめているのだ。
和洋中どんなメニューでも美味しく楽しく食べている。
テレビで料理番組を見て、雑誌で料理特集を見て、誰かから話を聞いて、それが食べたいと思うのは酒をやめる前も今も変わらない。
ただそこで料理に合う酒を選択する行為が無くなっただけである。
つまり酒に関するあらゆる選択が無くなった事で、食事にかかる時間が減り、より他の事に費やす時間が増えたという事。
子供と風呂に入る、子供と遊ぶ、家事を手伝う、一緒に寝る。
当たり前の日常だけど、以前は酒に費やす時間も同様に大事だったので、これらに費やす時間は今の半分にならざるを得なかった。
またその時間を心から楽しんではいなかったと思う。何故なら酒に費やす時間を割かなければいけないのがストレスになっていたからだ。
今は心から楽しんでいるし、素面なのでその日常の記憶もハッキリと残っている。
子供が寝た後に本を読んだり、ネットをしたり、釣り具をいじったりもする。
前は酔って寝てしまう事が多かったのでこういったこともあまりできなかった。
酒に囚われない=時間を浪費しない
延々ダラダラ飲む事もなく、酒に関する選択肢で悩む事もなく、酒による失態を悔やむ事もない。
前にも書いたが、私はどちらかというと1人で飲む事が多かった。
しかし1人で飲めない人が酒に囚われると厄介だ。
常に誰と飲むか考えている、とにかく飲み会を開きたがる…
やがて酒による毒もあり思考がおかしくなってくる→周囲の人が距離を置き始める→飲む相手が少なくなる→益々酒に溺れる→飲まないと不安で落ち着いていられなくなる→末期
酒に囚われてはいけない。
断酒生活(170日目)〜飲まないという思想〜
知人の音楽好きに影響されて、レコードを集め初めて早2年。
とはいえもともとそんなに音楽に精通しているわけでもないので、自分の好きなアーティストやジャンルを中心に気が向いた時に少しづつレコードを買っている程度。
ここ最近のアナログブームで色々なアーティストがアナログを出してくれるので、昔好きだったアーティストのアルバムがLP化されるのは嬉しい限りだ。
さてそんな中で最近仕事の流れからマイナースレットというUSハードコアバンドを知ることになりました。
もともと洋楽にはとことん疎いので、えっ?今さらと思われるでしょうが恥ずかしながら今さら知りました…
さてこのマイナースレット、調べてみるとvoだったイアンマッケイが「ストレートエッジ」という思想を提示した事でも有名で、その思想とは旧来のセックス・ドラッグ・ロックンロールというパンクス思想に対するアンチテーゼとして、NO smoke NO drug NO alcohol NO sexという、吸わない、キメない、呑まない、快楽的なセックスをしないという思想だという。
以下引用
ロックだパンクだ社会批判だ革命だと言ったところで、「だらしない大人」と同じように飲酒喫煙や薬物や自堕落な性行為、博打、フリーセックスと言えば聞き良い乱交、などに耽っているようではどうしようもないと言うことである。
ロックとドラッグとセックスでラブ&ピース的能天気なフラワームーブメント(もはや老人的懐古趣味だ)からの決別でもある。
まあここからさらに菜食主義、カフェインを取らないなど発展型の思想もあるという。
ただストレートエッジ思想はファシスト的な思想になる危険性もあるとも言われている。
イアンマッケイ自身は現在のストレートエッジ思想は自分が当初提唱したものとは趣旨が違っているとして共感できないとも言っているとか。
まあ謂れは色々あるが、個人的にはこの思想に一部賛成だ。
セックスドラッグロックンロール。それがカッコいいとされた時代はもはや過去の事で今やそんな退廃的な思想や行動は逆にダサいというのが今の若者にも共通しているところなのだと思う。
だらしなく腹が出て、醜態をさらけ出し、酔って迷惑な行動を起こす。
うるせ〜酒のない人生なんて糞食らえ、破天荒はカッコいいんだ!
なんて思ってる節があるのが今のアル症予備軍の中年達だろう。自分もそうだった。
どうにでもなれという退廃的な事を良しとしていたように思う。
しかしそれは現実から逃げているだけに過ぎない。
もちろん呑まない事が良いとか偉い訳ではなく、酒も嗜好品として適度に楽しめるならそれは素晴らしい事な訳で、そこを否定するのは違うと思う。
結局は人に迷惑をかけずに嗜めればそれに越したことはない。
あとは自分自身の健康と相談してうまく付き合っていけば良いのだから。
少なくとも退廃的な思想で人に迷惑をかけるような前時代的な時代錯誤な思想よりはこのストレートエッジの思想の方がはるかに良いと私は思う。といって自戒が行き過ぎて、禁欲的になりすぎるのには賛同できない。
断酒生活(167日目)〜クライアントとの関係〜
先日お客さんが開催しているイベントに行ってきた。
久しぶりに会った人から一様に「痩せたね〜」と言われた。
肝臓の具合が悪くて断酒した旨を話すと、可哀想にとか、酒の無い人生は考えられないなどなど哀れみの言葉をいただきました。
毎度の事なのですが、「酒の無い生活を能動的に選択し、結果として酒のある人生よりも充実しているのでお情け無用です」と心の中でつぶやくのでした。
この集まりは年に1〜2回あるのですが、今まで緊張から飲み過ぎてだいぶ失態をさらしていた。
ただ優しい人ばかりで、酒乱というレッテルを貼られながらも笑いながら接してくれていた。常日頃会う訳ではないので許されていた?ことであり、本来ならクライアントと飲んで失態を犯すのは許される事ではない。長期的に見れば、あの人は酒乱だから関わらないでおこうと遠ざけられるのが世の常だ。
打ち上げに参加して、緊張から酒をあおり、饒舌になりというパターン。
やっちまったなあと思いながらも次の集まりでまた同じ事を繰り返す。
だったら参加しなければいいのだが、断る勇気もなくズルズルと…
しかし今回は酒が飲めないという「免罪符」もあり、あっそうか飲めないから仕方ないねという感じで打ち上げには参加せずに済んだ。
そもそも私が参加しなくても、何の問題も無く成り立つ会なのに、そこに参加しなくては駄目だと勝手に思い込み参加していた訳で、本来はこれでいいのである。
確かにそこに参加すれば、参加しなければ聞けない話などもあるだろう。
しかしそれは適度に酔える人ができることで、酒に飲まれてしまう私にはそもそも参加資格が無いのである。
飲まなければ余計なトラブルも起きない、自己嫌悪にも陥らない。
飲みの席にいなくたって飲みはじめてしまえば誰も1人いない事なんて大して気にしていないのが現実だ。
最初は健康上の理由でも何でもいい。それが続けばあの人はもう飲まない人なんだと認識される。そうすれば参加しようがしまいが気にされなくなり、参加してもジュースで違和感無くそこにいることができるだろう。
それでいい、それがいい。
断酒生活(164日目)〜出張を終えて〜
週末に地方へ出張していました。
地方出張といえば、ご当地グルメが楽しみだった今までは、夜どこで飲むか?何件行くか?そんな事ばかり考えていた。
実際地方の居酒屋にはそこでしか食べられないメニューがあり、それがまた楽しみの一つでもあった。
しかし今回は酒が飲めない。
果たしてどうなる?
酒の飲めない地方出張ほど楽しくないものは無い→やっぱり酒飲もうなんてことになるだろうか?
少し不安であったが、行ってみて新たに気付いた事がある。
確かに居酒屋には入りづらいのだけど…
そもそも居酒屋にそこまで魅力を感じなくなっている自分がそこにいたのです。
酒宴にはつきあったのですが、そこで美味しい地のものは十分に楽しむことができた。すると新たにもう1軒、さらにもう1軒という欲が無くなっているのである。
酒を飲まない者の夕食は割とすぐにお腹いっぱいになって満足するので、何件もはしごして食べようという気にならないのだ。
折角地方にきたんだからと何件もはしごするのは、結局酒の食欲増進効果が成せる業であり、酒が無ければ1件でも十分に満足なのだ。
そんな訳で居酒屋へ行きたいと思わなかったので、結局地方の夜は全然苦ではなかったのです。
もちろん〆のラーメンなど酒を飲まなくても楽しめる場所は探せばいくらでもあって、逆に今までは二日酔いで朝スタートが遅れていたのですが、いつも通り目がスッキリ冷めるので朝飯、昼飯、おやつと楽しめて限られた時間を極めて有効に過ごす事が出来た。
酒が好きな人から見れば、折角地方にきたのにもったいないなあ、損してるなあと思われるのでしょうが、全然そんな事はなく飲まなくても同じように食事を楽しむ事は出来るんですね。
心配は余計な気苦労となって泡と消えました。
もちろん飲める人は居酒屋巡りも楽しいでしょう。
ただ私はそこに魅力を感じなくなってしまったので、悔しさも、惨めさも、羨ましさも、そういった感情が湧いてこないので、また酒を飲みたいとも思わなかった訳ですね。
酒の呪縛から少しずつ開放されているのだなと今回の経験で新たに思いました。