NO SAKE Life is

飲酒歴16年以上20年未満。2016年6月4日断酒開始。

断酒生活(220日目)〜クールダウン〜

先日の続きです。

 

その後頭をクールダウンさせて色々考えてみました。

そして妻とも話し合いをし、私もどうも最近は思いやりが足りていなかったなと自戒しました。

 

共働きでしたが、第2子が産まれるにあたって妻は仕事を辞めました。

仕事を辞めて子育てに専念する、というか両立は現実的に難しいという結論からです。

私も自分1人の稼ぎで家庭を支えていかなければいけないというプレッシャーを同時に抱えました。

その分仕事をやめた妻に対して、働いてないんだから家事育児をするのは当然でそれが仕事だろうという気持ちが少なからずあったと自覚しました。

だからといって私は家事育児に協力しなかった訳ではなく、むしろ協力的でした。

ただそれだけやっていた分、妻の育児ストレスに対して肝要になれなかった。

俺はこれだけやっているのに…むしろ感謝されていいくらいで、イライラをぶつけられるなんてナンセンス!

ストレスくらい少しは我慢できないの?それはただの甘えだろう?という気持ちがいつしか心を埋め尽くしていました。

 

でも実際四六時中家で子どもたちと一緒にいて、自分の時間など無いに等しい妻のやり場のない切なさやストレスは想像を超えるもので、むしろそれを想像してあげなければいけなかったなと反省しました。

 

断酒してから口うるさくなったと言われたのは、決して断酒がどうのこうのではなく、ただ単に私に相手を思いやる気持ちがなかっただけでした。

断酒してから今まで以上に家事や育児に費やせる時間が増えました。

酒を飲んでいた時は夕飯後はすぐに寝てしまったり、あるいは外で飲んで午前様で帰ってきたり。だから喧嘩をする場面が少なかった、というより私が妻と同じ土俵にあがっていなかった。

だから妻も酔っぱらったなら仕方ないという免罪符のような気持ちがいつのまにか習慣化していたのだと思います。

 

今回の喧嘩は申し訳ない気持ちもありますが、結果として色々と気付けて良かったなと思います。

飲んでいたら恐らく、外で飲む回数が増えてまたいつの間にか泥酔して何かをやらかしていた事でしょう。

嫌な事があって酒に逃げても、結局何も解決しない。むしろ事態は悪くなる。

素面で冷静に物事を考えるということは、物事に真剣に向き合う事なんだと今回また一つ学びました。

断酒生活(216日目)〜踏みとどまったが〜

明けましておめでとうございます。

今年も拙文なブログではありますが、断酒の記録として更新して行きたいと思います。


さて、明けて新年おめでたい所なのですが今このブログを書く前に酒を再び飲もうかと一瞬心が揺らいだのでどうにも書かずにいられなくなり書き始めてます。


妻と新年早々些細な喧嘩をしました。

内容は割愛しますが、大したキッカケではないです。

子育て疲れなのでしょうか?元来の性格も相まって神経質になりイライラしっ放しです。


最終的に私に物を投げつけてきたので、私も怒って投げ返しました。

その時に放たれた言葉が

「あーあ、(あなたが)お酒やめてからいい事全然ないわ」です。

どういうことだ?と問えば

「前はこんなに怒りっぽくなかった。もう少し温厚だった」との事。


もう心が震えましたね。

怒りを通り越してなんというか虚しさしかないです。

別に妻のために辞めたわけでもないですが、少なからず要因の1つにはあります。

泥酔して外で寝たりして心配をかけたくないという思いもありました。

実際辞めてから、そういった心配をかけることも無くなり色々いい事あったと言ってくれていたのは全て嘘だったんでしょうか?

喧嘩の際の言動なので、怒りの感情が前面に出た罵り言葉ではあるとしても、どこかで思っていなければ発せられない言葉だと思います。


色々考えましたが、断酒してる事が偉いわけでもないので何も言えませんが。

それにしても少なからず断酒を頑張っている人間に対して言って良い言葉でしょうか?

本当にそう思ってるなら、私は断酒しない方がいいということになります。


先ほど頭を冷やして考えました。

喧嘩については物を投げ返した私も悪いです。しかしどうしても発せられた言葉は許せない。この先の断酒生活存続にかかることだ。


まず一年断酒。これは決めたことです。

辞めてから良かったことの方が圧倒的に多かった。このくだらない喧嘩のためにまたヤケになって飲み始めたら前よりも遥かに悪い方向へ進むのは目に見えている。

馬鹿馬鹿しい…断酒は継続しよう。


ただ今回の発言をした妻に対する思いは今後色々考えざるを得ない。子供はまだ小さいし。私も頭を少しクールダウンさせよう。


さて今日から仕事初めです。

今年は踏ん張りどころの一年になります。

いいキッカケだと思ってるので一年我武者羅に頑張ってみようと思います。

断酒生活(208日目)〜酒の肴にはならない〜

本日仕事納めでした。


納会がありまた飲みの席に出席しました。

本来納会なんて会社だサッと出前と乾き物並べてお疲れ様でした〜みたいな軽い飲みなのに、何故か二次会が用意されていた。


後は各自でご自由に!で解散にして欲しかったのだが…1人参加しないわけにもいかず


そして参加したらしたで、嫌な気分になった。私が飲まなくなってもう半年経つのだが、まだ以前の私と飲みたがっているのだ…


12月忘年会に一回しか参加しなかった。やや物寂しい気分になったのも事実。

まあお客さんとのお付き合いや、気のおける友人との飲み会なら年に何度かしかないからのんでもいいかなと思っていた。


しかし今日の飲み会で来年はまた元の酒飲むと人が変わる私と飲みたいなと言われた時に全てがわかった。

あー結局こいつらは俺の酔狂酩酊を酒の肴にしたいだけなんだなと。

その飲み会の場の盛り上がりばかり気にしてる。その盛り上げ役が欲しいだけ。

アホか!

その役を自分の人生棒にふってまでやるきなんてさらさらないわ。

盛り上げ役が欲しいなら誰か盛り上げ役が上手い人材でも入れりゃあいい訳で。


最後の日に嫌な気分にさせられた。

こんなことなら参加しなきゃよかった。そもそもこの集まりに参加していい事なんてないんだから。

来年はもう義務参加もなるべくしないようにする。


飲むか飲まないか悩んでいたけど、やっぱり飲まない方向で統一した方が色々面倒もなくていいかなと思った。

まあまずは目標一年なので、また来年6月になったら考えます。

まあ圧倒的に飲まない生活は快適で有意義な事がわかったので飲まないと思う。

ただ先述したような付き合いの場だけは少しだけ口にするというのが有りなのか、無しなのか?

よく断酒関係の本やブログを読むと、やめるか飲むかしかないという。

少量でも再飲酒を始めたら、結局は元の生活に戻っていくという。

コントロール障害、つまり適量飲酒ができないから問題飲酒になり、果てはアル症に、なるのだと。

自分はアルコールそのものへの強い飲酒願望はこの断酒中も無かった。

だから大丈夫な気もするのだが、元に戻るのは嫌なので可能性があるのなら飲まない選択をした方が賢明だとも思う。


未だ結論は出ていない。

もう少しじっくり考えようと思う。

断酒生活(206日目)〜予感と予測〜

先日の件はまだ正式な回答はないが、いずれにしても新たな道を模索する方向に事は進めている。

もう1つ私の核となるクライアントがある。このクライアントとの仕事こそ一番歴史が長い。何度も危機はあったがただ乗り越えてきている。
しかしなんとなく終わりに向かっている予感もある。こちらははっきり言って無くなると決まったらこちらがとうにかできるレベルの問題ではない。

1つはクライアントの担当者が会社を辞める時はこの仕事の無くなる時だと思っている。
人が辞めるのには色々な理由がある。
ましてやそれは外部の人間がどうこうできるものでもない。
今年一年見ていて、ああもしかしたら来年あたり辞めてしまうのかもなと思うことが少しあった。
人間というのは予感ができる生き物だと思う。自然災害もまた太古の昔は何かしらの異変や兆しを敏感に察知してきたのかもしれない。
長年付き合っていると阿吽の呼吸ではないけど、何かピンと感じる瞬間はあるものだ。

もう少し頑張ろうと思い直すかもしれない、あるいは辞めようと決断するかもしれない。
いずれにしてもその時は私も潔くその決断を受け入れるし、本当に労をねぎらい、そして心から感謝の意を示したいと思っている。

その時は近いような予感がある。そしてその時は受け入れるしかないのだが、その先の私の身の振り方も決めておかなければいけない。
それが予測であり、予測した結果が起こった時のために準備をしておかなければいけない。

いづれにしせよ来年はかなり勝負の年になりそうです。
いずれ来る事だとわかっていたし、その準備はもっと前からしておくべきでもあったのだけど、慌てているわけじゃない。
この段階からでもいいと自分で決めて現実に甘んじていたから。
残していた夏休みの宿題に手をつけるといった感じだろうか。

「時は来た!それだけだ」

断酒生活(201日目)〜終わる歴史〜

ついに200日を超えました。

と言っても書こうと思って気がついたら、あっ200日過ぎてるという感じですが。


毎年12月は飲み会続きでしたが、今年は全くノンアルコール生活なので体も軽いです。


さて今日は仕事で少しショックな事がありました。

私の担当しているやや大口の案件が無くなることが決まりました。

と言っても急にというわけではなく、なんとなく布石はあってそろそろかなあとこちらも身構えてはいたので、そこまでショックも無かったのですが、些か予想よりも早かったなという感じです。

だいたい要件を伝えられずに呼ばれる場合は、あまりいい知らせではないなとわかるので今回もある程度予測はできていました。


さて私のやっている仕事は広告関係で、永遠に続く案件はないというのは過去の経験則からもよく理解しています。

だからこそ営業としては常に新しい案件やクライアントを開拓していかなければいけないのです。

まあこれは結局どの仕事でも同じなんだと思います。


もちろん新たに開拓していかなくてはいけないのはプレッシャーです。押し潰されそうにもなります。ただやらなきゃ食べてはいけないのでやるだけです。

今日起きた現実に対して、事実を冷静に受け止め、一つの打開策を考えらました。そしてそれを提案し、新たな目標を立てることができました。

これはあらかじめ漠然と考えていた一つの対処法ではありますが、こういうことを事前に準備できていたのももしかしたら断酒の効果があったのかなと思います。

また事実を受け止める冷静な思考も断酒のおかげでしょう。


一昔前の私なら今夜は酒に逃げていたでしょう。

冷静になれと酒を煽り、挙句は泥酔し一時的に全てを忘れたかのように。

しかし翌朝に残るのは何も解決策の出ていない現実と二日酔いの気持ち悪さに加えて罪悪感からくる暗鬱とした気分、そこにプレッシャーが恐怖となって襲いかかってくる。

そして再び飲む。

家庭でも冷静ではいられないでしょう。


しかし今日私は冷静だった。波は多少立ったが大きなうねりにはならなかった。

家庭でも冷静でいられた。そして今冷静にこのブログを書いている。

もちろん現実は変わらない。

ただ一つ変化に気がついた。それは思考がポジティブになれていること。

もうダメだ。ではなく何か出来ないか?別の角度から見てみるとどうか?このように考えられている。多分これは断酒効果だと私は思う。


さて現実は大きな利益は無くなったのだが、直ちに0にならない方向を模索できた。

来年度新たに気合いを入れ直して頑張るものができた。

いずれは訪れる終わり。しかしそこから新たに始まることもある。

永遠に続くものはないが、形を変えても続けていけるものはある。続けていくことで変わることもある。

今はせっかく続いた小さな歴史をもう少し続けていける可能性があるならやってみようと思っている。


私の好きなバンドの解散ライブでのMCを書いて今日は締めたいと思う。


「歴史というものは大変素晴らしいもので

終わる歴史もあれば、続いていく歴史もありますね。

そういった札幌の私が影響を受けたバンドの方々はずーっと、この歴史が続いていっているわけで、その分その重さを作品に表していっておる訳ですね。」

断酒生活(192日目)〜忘年会シーズン〜

やや間があきました。

12月年の瀬に入り、色々と慌ただしくしております。

 

さてこの時期になると世の中は忘年会シーズンで、毎日どこかしこで酒宴が開かれている。またそういったお誘いも多くなる時期だ。

私も社会人1社目の会社の同期からお誘いがあった。

例年この年末の時期に同期や当時の先輩、後輩も含めて現在まだその会社にいる人、やめた人関係なく大勢で集まる恒例の行事だ。

 

当初参加するつもりでいたのだが、皆の日程がなかなか合わず、結果的には私は別の予定が入っていて行けない日に設定してもらった。

調整つけて行くとは言ったものの社交辞令で、実際飲めない私が行ける日程に合わせてもらうのが忍びなかった。

参加したくなかった訳ではない。

ただ実際、飲み会というものに対する優先順位がとても低くなっている事に気がついた。一つは参加費として4〜5千円かかるということ。もう一つはその日家の用事で会社は元々休みにしていたので、わざわざ飲み会のために都心に出るのがおっくうだったという事。

この2つの要因は以前であれば、それでも飲みたいという飲酒欲求の方が圧倒的に勝っていただろうが、今は逆である。

 

飲み会を否定するつもりも無いし、むしろ参加したい会もあるが、あきらかに優先順位は低い。

例年ならこの時期は飲み三昧で散財していたものだが、今はそのお金は趣味の釣り具やファッションに使っている。

どちらがいいか?

それは人それぞれが決める事だし、どちらが良くて悪い訳ではない。価値観の違いというやつで、今の私は飲み会にお金を使うよりも、別の事に使う方が有意義なのだ。

 

飲めないとお誘いも少なくなる。

やがては誘われなくもなるだろう。

飲める人の立場からは、飲めない人は可哀想だと思う(かつて自分もそう思っていた)。

飲み会に参加しても素面じゃつまらんだろうし、ジュースなどで同じ金額払わされるんだから損してるし、何より楽しい飲み会に誘われないのは可哀想だと。

 

飲めない逆の立場になってみて良くわかる。

・素面じゃつまらない=酔っぱらいの醜態を見るのは面白くないし時に不愉快。

・損してる=つまみも冷静に食べてみれば大して美味しくないものばかりで、まさに「損」その通〜り。

・可哀想=むしろ積極的に参加したいと思わないので、誘われないのは逆にありがたい。

 

という訳です。

これはいくら飲める人に説明しても決して理解されないと思う。

そのくらい飲酒至上主義社会の先入観というものは根強いなと感じます。

断酒生活(180日目)〜酒に囚われない〜

間も無く断酒して半年が経つ。

まだ半年!というくらい時の流れはゆっくりな気がする。

それだけ素面でいる時間が多いということなのだろう。


酒というものは麻酔的な快楽を与えるが、同時に時間を奪ってしまう。

脳が麻痺するので時間感覚がおかしくなり、延々ダラダラと飲んでいるのだ。

酒を飲まないで飲み会に参加するといかに時間を浪費しているかがわかる。


酒に囚われると酒の事ばかり考える。

何時飲もうか?

何処で飲もうか?

誰と飲もうか?

何を飲もうか?


そうして考えている時間も楽しかったものだが、今思い返せば全くもって時間の無駄だ。

結局飲み始めればどうでも良くなって後は変わらないのだから。


実際酒をやめたら、夕飯というものへの執着がなくなった。

前は今日はこの酒を飲みたいから、このツマミでと考えていたが今は毎日出されるものをなんの文句もなく食べている。

そしてそれは決して食に対する興味が無くなったわけではなく、十分に食事を楽しめているのだ。

和洋中どんなメニューでも美味しく楽しく食べている。

テレビで料理番組を見て、雑誌で料理特集を見て、誰かから話を聞いて、それが食べたいと思うのは酒をやめる前も今も変わらない。

ただそこで料理に合う酒を選択する行為が無くなっただけである。


つまり酒に関するあらゆる選択が無くなった事で、食事にかかる時間が減り、より他の事に費やす時間が増えたという事。

子供と風呂に入る、子供と遊ぶ、家事を手伝う、一緒に寝る。

当たり前の日常だけど、以前は酒に費やす時間も同様に大事だったので、これらに費やす時間は今の半分にならざるを得なかった。

またその時間を心から楽しんではいなかったと思う。何故なら酒に費やす時間を割かなければいけないのがストレスになっていたからだ。

今は心から楽しんでいるし、素面なのでその日常の記憶もハッキリと残っている。

子供が寝た後に本を読んだり、ネットをしたり、釣り具をいじったりもする。

前は酔って寝てしまう事が多かったのでこういったこともあまりできなかった。


酒に囚われない=時間を浪費しない


延々ダラダラ飲む事もなく、酒に関する選択肢で悩む事もなく、酒による失態を悔やむ事もない。


前にも書いたが、私はどちらかというと1人で飲む事が多かった。

しかし1人で飲めない人が酒に囚われると厄介だ。

常に誰と飲むか考えている、とにかく飲み会を開きたがる…

やがて酒による毒もあり思考がおかしくなってくる→周囲の人が距離を置き始める→飲む相手が少なくなる→益々酒に溺れる→飲まないと不安で落ち着いていられなくなる→末期


酒に囚われてはいけない。